軽く吹き抜けて行く風を、ぼくは両手で抱きしめる。
揺れる花の魅力。草の良い香り。川の清い流れ。柔らかな土の感触。――そんなものを五感全体で感じながら。
ぼくは、一日を過ごす。
「人間が来たぞ!」
ぼくが一人で木の実を探していると、北の方から誰かがそう叫ぶ声が聞こえた。
この辺りは、トレーナー……とはいってもまあ弱い人が多いのだけど、とにかくそういう人がたまに通りかかる。弱いといっても先手必勝でボールを投げられたら対処のしようが無いので、いつもこの言葉を合図に、ぼく達は様々な所に掘られた穴へと潜るのだ。
いつもの様に穴の方へと向かい走ろうとすると、突如。
「……ねえ?」
――と、声を掛けられた。
ん、とぼくはその声に応じる。ぼくより少し高い位置から聞こえてくる、ニドラン独特の高い声。だけど、同性であるとは思えない。不安そうなその声は、きっとぼくより幼いものだろう。
「どうして、みんな、走り出した、の?」
その言葉に、ぼくは振り向き、そして硬直する。
薄い水色をした傷の無い綺麗な体。白く、ちょこんと小さな牙。くりんとした丸い瞳は、じっとぼくを見つめている。
「あ……」
答えようと、思った。
けれど、言葉が出ない。
彼女の大きな紅い眼に見つめられて。
彼女の体に、目を取られて。
彼女に、心を奪われて。
――初めての体験だった。
「ねえ、どうして、なの?」
言葉の一つ一つが、ぼくを揺さぶる。兄さんにのしかかられた後の感覚のように。
トレーナー用語でいうなら……マヒ、だったっけ。
――そんな事を考えながら、ぼくは彼女に応える。
「――え、と」
トレーナーが迫っているから逃げているんだ、君もそうしたほうがいい。――そう、告げようと思った。
思ったの、だけれど。
ぼくがそれを言う前に、大きな暗い影が、ぼくらを包み込んだ。
それが何か、なんて――考えるまでも無い。
考えたくも、無い。
それに対するぼくの反応は――情けない、ものだった。
視界に捉える事が出来た一つの穴に向け、一目散に走って行ったのだ。
彼女を、残して。
それほどに、恐怖だったのかもしれない。
人間という、存在が。
だけどそれは。
彼女を置いて逃げた事に対する言い訳にすら、なっていない。
ようやく穴の中に潜り込み。
そして。
「あぁぁぁぁぁ!」
ぼくは誰も居ない穴の中で、絶叫した。
懺悔――だろうか。
後悔――なのかも。
慚悔――有り得る。
でもどんな言葉を使ったところで。
ぼくは。
臆病な一匹のニドランでしか、無いのだった